主足

【主足】お題「風邪」

ワンライ

 スピーカー越しにきこえた鼻をすする音に、寒いの、と訪ねた。そうすれば気の良い声がええそうですと返ってくるから、そっかあなんて適当に白い息を吐く。

「ベランダ、出ました?」
「うん。言われたとおり」
「星が綺麗でしょう」

 耳元に返ってくる声は嬉しそうに、息が弾んでいるのがわかる。スキップでもしているんだろうか、いやそんなまさか、子供じゃあるまいに。

「綺麗だね」
「貴方も綺麗だ」
「……見えてないくせに」
「いいえ、見えます。貴方はいま俺からの電話で暖房のかかった部屋からわざわざベランダに出てくれて、寒くって鼻を赤くしてる。靴下は……はいてないですね。突然だったから。寒いでしょう?」

 サンダルの下の裸足をすり合わせた。

「恋人から電話がきたからって、ちゃんとベランダに出てくれる貴方はかわいい。澄んだ星空を眺める貴方は綺麗だ。ほら、貴方の瞳に星が写りこんでる。綺麗ですよ」

 どう答えてやろうかと考えていると、彼はしばしの沈黙のあと、照れ臭そうに笑みを漏らした。

「聞き惚れました?」
「まさか。呆れ返ってた所だよ」

 ふふ、とスピーカー越しで耳には触れない、彼の吐息がもどかしい。ねえ、あのさ、小声で吐き出した音を彼はちゃんと聞きとって「どうしました?」と不思議そうに促す。す、の口のまま、数秒おいてから、やっと喉を震わせた。

「好きだよ」
「……風邪でも引きましたか」
「ひどいなあ。ほら、だって、顔合わせてもなかなか言えないでしょ。だから、さ」

 慌てて言い訳をつむぎながら、なかなか聞こえてこない返答に、頬に熱が上がってくるのがわかる。しくったかなあ。言わなきゃよかったかも。なんて考えていると、また鼻をすする音。

「なに、泣いてるの? それとも寒い?」
「寒いだけですよ」

 ムッとしたような声。子供っぽいと笑うと、スピーカーから音が聞こえなくなった。怒ったかな。多分、電話を耳から離している。

「好き。好き。はやく会いたいなあ」

 ふざけたように、マイクに口を近づけて発する。相手に聞こえているかはわからない。夜空には変わらずちらほらと見え隠れする星が輝いていた。

 ガラリと窓が開く音がして、驚いて振り返ろうとした時だった。君の匂いに背中から抱きしめられる。

「……おかえり。早いじゃん」
「ただいま、透さん」

 そう言うと君はまたず、と鼻をすすって、おまけに咳までこぼしている。

「やっぱり寒いからじゃないじゃん、うそつき。風邪?」
「朝から違和感はあったんですけど……」

 彼はぐりぐりと、僕の肩に頭を擦りつけてくる。

「直接、言ってください。俺の顔を見て。ねえ、お願いだ」
「いいよ。病人にはやさしくしてあげる」

 彼の腕の中で向きを変えると、澄んだ瞳と向き合った。本当に星空がうつりこんでいるみたいだ。きれい。なんてこんなの、君がさっき言ってた言葉じゃないか。そうじゃなくてさ。

「好きだよ。好き。はやくこうしたかった」
「俺もです」

 間抜けそうにふにゃりと笑う彼の、口元にそっとキスをした。彼の腕の力がぎゅっと強くなるとサンダルがずれて、つめたいベランダに裸足が落ちる。星空の下で、冷たい空気の中で、冷えきった足元と、君の頬とは裏腹に、ふたりが触れ合う唇は息を吐く度に暖かい。口はしから真っ白な息が漏れては消えゆく。夜を歩いているようだ。

「あいしてる」

 唇が離れると同時にそう呟けば、彼は目を細めて泣きそうな顔をした。ぐちゃりと顔が歪んでも、鼻が真っ赤になっていても、鼻水がちょっと垂れていても綺麗な顔は綺麗な顔なんだからどうしようもない。彼がとびきり可愛く思えて、僕は心の中で世界中に自慢をした。どうだ、僕の恋人はとても可愛いだろう? なんて。

「星が綺麗だったのは本当ですよ。でも、はやく貴方の声を聞きたくて、寒いのに。ごめんなさい」
「病気のときは人恋しくなるものだよ。君が治るまでずっとそばに居てあげようか?」

 彼はまた、かわいそうにずび、と鼻をすすりながら「いてください」と答えた。

「ねえ、じゃあこれだけ聞かせてよ。電話越し、さっきさ」

 ホントは泣いてた?
 彼は耳元で、そっと答え合わせをした。