灰皿の中に残ったのは、俺が燃やした最後の証拠の残りカスだった。携帯の電話帳に残ったのは、どうしても守りたかった彼の電話番号だった。
ひとり暮らしの目覚めには、そろそろ慣れてもいい頃だと思った。誰もいない部屋を見つめて、何の意味もないため息をついて。そんな繰り返しを続けてもう数年になるだろうか。濃い霧は日常と化して、平穏に侵食していく。いつしか俺が住んでいる都会までうっすら霧がかかるようになった。
いつもより温かい布団に違和感を覚えながら、俺は目を開けた。壁と目があって、数回瞬きを繰り返してから買い替えたばかりの携帯を確認した。番号は変えていない。みんなから連絡はなかった。重たい身体で寝返りをうつ。
「おはよう」
その言葉を発した人物を認識すると、俺の脳はパニックを起こして、ただ目を見開いて飛び起きることしかできなかった。布団の、隣に寝てこちらを見つめる人物は、不法侵入、いや、そうじゃなくて。
夢か?
思わず手を伸ばすとさらりとかわされたので、これが紛れもなく現実なのだとわかった。彼は布団から滑るようにおっこちて、こちらを振り向く。
「食べるでしょ」
「え?」
「朝ごはん、食べるでしょ」
狼狽えながらも頷くと、足立さんがキッチンに歩いていくので慌てて布団から抜け出し後を追った。ここ数日料理をサボっていて、冷蔵庫を覗いたってろくな食材もないはず。キッチンに立った彼は見知らぬコンビニのレジ袋から食パンを二枚取り出し、トースターにつっこんだ。レジ袋のデザインを見るに、ここへ来る前にコンビニに寄ったらしい。
「あの、いつここに、というかどうして」
「場所は堂島さんに聞いたよ。着いたのは今朝。久しぶりに長い休みが取れたからさあ。それにしても、朝は霧で視界が悪いねえ」
足立さんは探り探り棚をあけると中を無造作に引っ掻き回して、焦げがこびりついた古いフライパンを引っ張りだした。
「てか君、また引っ越したんだね。何回目?」
「えっと…………」
ハッキリしない俺をじとりと見やってから、足立さんは冷蔵庫ばくりと開けて卵をふたつとりだす。不器用な手つきでそれをお椀に割ってかき回して、砂糖を入れてから「甘いのでいいよね?」と聞いてきた。キッチンの入り口につったったまま頷いた。油を敷いたフライパンにかき混ぜた卵が敷しかれる。
「あー、このフライパンくっつくなあ」
フライパンにくっついてしまう卵焼きをかき混ぜながら、足立さんが愚痴をこぼした。
「ねえ、サラダも買ってきたから適当に皿にのせといて」
「っはい!」
言われた通り、コンビニの袋から取り出したサラダを食器棚から出した皿にあける。トースターが音を鳴らすと、足立さんがトーストを皿にうつしてその上に焼いた卵をのせた。短時間で簡単に作ったものだけれど、テーブルに並べると、それなりの朝食に見える。それとも俺が知らないだけで、朝ごはんってこういうものなのだろうか。
「味付けはお好みでね。いただきま~す」
足立さんはスクランブルエッグにマヨネーズとケチャップをかけて、オーロラソースにしてからさくりと音を立ててパンをかじる。
「……ありがとうございます」
「あ、悠くんフォークちょうだい。サラダ用の」
「はい……」
食器棚からフォークを取り出し足立さんに渡すと、彼はもう一度いただきますと声に出してからサラダを口に運んだ。
「君も食べなよ」
「は、はい。いただきます……」
彼に促されるまま席につく。おそるおそる、ミニトマトにフォークを刺そうとするも、うまく行かずに転がってしまう。
「ハハ、へたくそ。ほら、あーん」
足立さんは俺が転がしたミニトマトをフォークで上手にすくって、口元に差し出してくる。戸惑いながらも口をつけた。
「おいしいです」
「それは僕作ってないけどね」
慌ててスクランブルエッグの乗ったトーストをかじる。
「おいひいれす。あの、スクランブルエッグ好きですよ」
「……卵焼きにするつもりだったんだけど」
パンなら正解か。と足立さんはため息をついた。互いの咀嚼音がリビングに落ちる。
「足立さん」
「なーに」
「えっと……どうして会いにきてくれたんですか」
「共犯者さんが、うっかり逃げ出したりしてないように。何度も引越ししてるじゃない君。それに、携帯も変えた? 番号はそのままみたいだけど。そろそろ無駄だよってわからせてあげたくて」
「ち、違うんです!」
ガタンと机を鳴らして立ち上がる。貴方から逃げたい訳じゃない。それだけは誤解されたくなかった。
「違うって何が。僕から逃げようと思って何度も何度も引っ越ししてるんじゃないの。聞く度に住所変わってるんだもんなあ」
「本当に違うんです、貴方が会いに来てくれた部屋は、貴方がいた記憶がありすぎて」
「はあ?」
足立さんが怪訝な顔をする。俺はどうにか理解してもらおうと躍起になって弁明をする。
「例えばほら、貴方がコンビニの袋を置いた場所とか。パンを焼いたトーストとか。冷蔵庫から卵を取り出したところとか。使ったフライパンとか。思い出しちゃうじゃないですか、貴方が帰っても」
「それが?」
「辛いんです。貴方には会えないのに、貴方の事ばかり思い出して」
足立さんはぽかんと口を開けてそれを聞いていたが、しばらくすると腹を抱えて笑いだした。
「わ、笑わないでください!」
「だって、きみ……あーおかしい」
彼はにやついた口元を拭ったあと、にんまりと目を細めて低い声で呟く。頬杖をつくのは行儀が悪いです、なんて、きっと昔なら注意していたのに。彼の視線に囚われて、離れられない。
「愛してるよ、悠くん」
「お、俺も……」
くらりと、彼にあてられふらついた。
「あ、あだちさん、貴方は、貴方だけは、俺を見捨てないでいてくれますよね」
「当たり前じゃない」
彼は手を広げて、おいで、と言って、俺を受け入れてくれる。その身体に抱きついて、彼をつよくつよくだきしめた。
「ひとりはこわい、あだちさん」
「うん」
「朝起きても、ご飯を食べていても、帰ってきても、誰もいないんです。それでも貴方が居た思い出だけはある。それがつらくて、引っ越しを繰り返しました。でも、これじゃまた、きっと同じ事になる」
足立さんはうん、と俺の背中をそっと撫でた。
「可哀想な悠くん。僕以外にきてくれるおともだちはいないの?」
「みんな、い、忙しくて、だって」
「本当かなあ。だって、忙しくっても連絡くらいはできるでしょう?」
「わ、わかりません、俺から、連絡していいのか」
「きっと、煩いと思われるよ。あの霧を晴らせずに、のこのこと都会に帰っていったやつなんて」
「そ、んな、こと……」
「帰り際、皆どんな顔してた? また会おうって言った? 空の色は? ねえ覚えてる?」
霧がかかって思い出せない。
「君が、都会に帰ってから、一番君のことを考えてるのは、誰だと思う?」
霧がかかった脳ではうまく思考できない。
「一番、君に会いに来てくれたのは、誰?」
「あ、あ……」
背中を撫でる手は優しくて、あたたかくて、俺と似たにおいがする。
「あだちさん」
彼は俺の耳元に唇を近づけて、低く囁いた。
「正解」