熱が篭ったYシャツのなか背中を汗が伝う。じりじりと肌を焦がすような日差しと共に彼を「嫌いだなあ」と思った。春から堂島さんの家に下宿している高校生。それだけでなんとなく気に食わないと思っていたのに、これほどまでに自分の神経を逆撫でしてくる奴がこれまでの人生いただろうか。冷たい缶コーヒーを首元にあててしのげる暑さは小指の先ほどのものであるし、腕まくりをして直射日光にあたる肌は痛みさえ覚えて、暑さを紛らわす為夏に舌打ちをした。こんな気候大嫌いだ。
この暑いのに、よくやるよ……そう考えながら偶然見つけた彼の頭をなんとなく追い掛けた。隣に居るのは確か……名前は忘れてしまったが、同級生らしい女の子が二人。両手に花とはまさにああいった光景を指すのだろう。面白くない、高校生のくせに。勉強しなくていいの。そんなに遊んでてさ。頭の中を渦巻く感情は嫉妬か何かだろうか、いやそんな筈はない、僕は今迄で一度だって、彼を羨ましいだなんて思った事はない。はしゃぐ女の子たちと楽しそうに会話を盛り上げている彼の笑顔が憎たらしくて仕方がない。気付かれて話し掛けられでもしたらたまらないので、視線をそらしたままその場から離れた。物陰で缶コーヒーを飲み干す。冷たいものを買った筈なのに、時間がたって生温くなっていた。その温度が夏の飲み物に似合わず嫌になる。厄日だろうか、嫌いな気温に嫌いな奴に、嫌いな生ぬるい温度の缶コーヒー。ゴミ箱に投げた空き缶は惜しい所で外れて道端に転がって、結局拾って捨て直す事になってしまった。ああ、嫌だ。
まただ。嫌な奴に会ってしまった。ジュネスで涼みながら、紙パックのジュースを片手にちょっとしたティータイムを嗜んでいた所だったのに。こんにちは、だなんて親しげに声を掛けてくる彼に対し無視を決め込むわけにもいかず、適当な挨拶を返す。すると彼は嬉しそうに微笑んで「何をしているんですか」と。見てわからないのだろうか。サボってるんだよ、見回りも外回りも、君と話すのも疲れるから。そう正直に言える筈は勿論ないので、建前を口からこぼした。
「仕事だよ。一応パトロールね、今はちょっと……休憩」
「サボってるんですか?」
「サボ……って、君言葉に遠慮がないよなあ」
「すみません」
謝る気も無いくせに。すました顔に苛ついた。ただでさえこの頃暑くて嫌になるっていうのに。彼は整った顔を崩さないまま首をちょいと傾ける。
「えっと、暑いのにお疲れさまです」
「どうも。君はどうしたの? 買い物?」
「ここにくれば足立さんに会えるかと思って」
「は?」
「冗談です」
「……真顔で冗談とかやめてくれる?」
ごめんなさいと笑う顔はいやに整っていて、やはり癪に障った。なんとなく耳を貸しておいてやれば、彼は夕飯を作るのに足りない食材を買いに来たのだとか。今夜のメニューはああだとか、作る時にこうすればいいだとか、彼が話すのを右から左へ聞き流しながら一応それらしい相槌をうつ。そうしていると突然彼の話がピタリとやんで、
「あの、大丈夫ですか」
そういいながら心配でもするかのように僕の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫って、何が?」
「ぼーっとしてる様に見えたので……その、疲れているんじゃないかと」
「あー……」
面倒くさくて話を聞いていなかったのがバレてしまったようだ。さて、どうしようかと悩むまでもなく次の演技は決まっている。
「あはは、なんかちょっと暑さにやられちゃったみたいでさ。ごめんね、話聞いてあげられなくて」
へらへらと取り繕って笑えば、彼は簡単に騙されてくれた。
「いえ、いいんです。すみません、俺の方もすぐに気付かなくて」
いーよいーよ、と言いながら、早く何処かに行ってくれと願った。ただ不幸な事にそれは叶わないようで、焦ったような口調で彼が嫌になる言葉をつなぐ。
「少し横になりましょう、今ならフードコートのベンチも空いてると思いますし」
「え、いいよ」
やめてくれよ、そう想いを込めた言葉は伝わらない。
「よくありません。行きましょう、あ、氷枕買ってくるので待っててください」
「ちょ」
っと待って、そう声を出す前に彼は店内へと消えてしまった。こうなってしまうと彼を置いてここを離れる訳にはいかない、彼は堂島さんと通じているのだからこの事もきっと伝わってしまう筈だし、ここで変に移動すると事がややこしくなりそうだ。僕はため息をつきながら、彼が小走りで帰ってくるのを待つしかなかった。
あのあと、本当に氷枕だけを買って戻ってきた彼のその後の行動に、今、僕は変な汗をかいている。
「大丈夫ですか? 枕、高くありませんか」
「う、うん…………」
彼は自分の膝の上に、新品の氷枕にタオルを巻いたものを乗せて、ここに寝てくださいと膝を叩いた。そんな悪いよ、なんてやんわりとしか断れなかったから結局する事になってしまったのだ。何をって、膝枕を。高校生の、十歳も年下のガキに、しかも男に、膝枕された上にクリアファイルだか何かで顔の辺りを扇がれている。身体は確かに楽になったし、さっきより調子が良くなってさえいるような。だがしかし誰がここまでしろと言った。僕は心配そうに自分を見下ろす彼の顔を投げやりになった脳でぼんやりと見上げて、どこから見ても綺麗な顔だ、と思った。憎たらしい。
「暑いですからね、水分補給……はしてたみたいですね」
「まあ、ね……」
クリアファイルの簡易うちわから発生する風は、氷枕のおかげもあってか涼しく心地良い。ただ、何してんだろ。そういった気持ちが強い。男に膝枕されて。心配されて。別にそこまで具合悪いわけでもないのに。こいつも何優しくしてるんだよ、叔父と同じ職場についてるだけのこんなやつに。こういうのは女の子にやっとけよ。何なんだこいつ。何なんだ。ぐるぐると巡る思考に、演技でなく本当に頭が痛くなってきた。
「つらいですか」
「ううん、君のおかげで大分楽になったよ、ありがとう」
心にもない事を告げて、もういいから、と起き上がろうとすれば、もう少しだけ休みましょうと言って彼が身体を押さえつける。
「ほんとに、いいから」
「まだ辛そうなので」
辛いのは、この状況なんだよ、くそ。
十も歳下の、やれば何でも出来てしまうような彼の、充実しているであろう高校生活そのほか諸々を送る彼の、綺麗な綺麗な顔を見る度に心の中で何度も反吐を吐いた。彼を嫌いだなあと思う度に沸々と嫌な感情が胸の底からわきあがった。ああ、汚してやりたい。あの整った顔をどうにか。そんな事さえ思うようになって、気付けば彼の存在を目で追っていた。頭の中から彼が離れなくて、全く煩いばかりだ。今日もまた、僕を見つけて嬉しそうに駆け寄ってくる彼がいる。ああ、いやだ。君は僕をどうしたいんだ。
「足立さん」
「ああ、君か」
その後の言葉はあえて続けない。それで会話が終わるのなら万々歳なのだから。それても彼は困ったような顔をして首を傾げて、こんな事を言う。
「もしかしてなんですけど……何か悩みごとですか」
「……どうして?」
聞き返すのは答えたくないからだ。そんなこと、この子には伝わらないと分かっているのだけれど。
「足立さん、最近話し掛けても反応が悪いし、顔色も悪いようですし、悩みがあって食べ物も喉を通らないのかな、とか色々考えてしまって」
まったく彼は変な所ばかり鋭い。気付かれたくない所ばかり、遠慮もせずにズバズバと言い当ててきやがる。僕はほんの仕返しのつもりで、こう返答した。
「じゃあさ、ちょっと相談してもいい?」
「おっ、俺でいいなら……!」
相談、という言葉を出した途端彼の瞳が輝いた。相談を持ち掛けるということはそれ程信頼されている、とでも思っているのだろうか。僕はとくに考えもないまま適当に話を切り出す。
「ええっと、最近気になってる子が居るんだけど、ちょっと聞いててくれる」
「は、はい!」
きらきらとした目を瞬かせて、彼は前のめりでいかにも話を聞いていますよ、という体制になった。仕返しとなるであろう相談、最近悩んでいる事、そうなると限られてくる。そんな風に考えながら僕はついうっかり、目の前にいる彼の事を話題に出してしまった。
「最初は僕、その子のことあんまり好きじゃなかったんだよね。生意気だし、なんか押しが強いしさ」
僕は一体何を話そうとしているんだ。真剣な眼差しに本心のようなものが引き出される。
「はじめは嫉妬みたいなものとか、劣等感とか嫌悪感すら抱いててさ、かなり嫌いだったんどけど」
確かにそうだ。でもこれはこの子にする話じゃない。悩みごとなんて簡単なものを適当に作って話して解決させてやれば気が済むんだ、それでいいじゃないか。それでも開いた口は止まらない。
「でもなんか気になってさあ。駆け寄ってくる度に嫌だ嫌だと思うんだけど、最近は悪い気もしなくなってきて。一応、その子も親切でやってくれてる訳だし」
そうだっけ、彼の笑顔を、憎たらしいと思っていたのではなかったか。口にする言葉と、脳内で反響する思考がごちゃごちゃになって、それでも僕は言葉を紡ぐことをやめないでいた。
「僕もこれが何を示してるのかわかんなくてさ。君はどう思う?」
「それって……」
やめろ。言うな。せめてお前の口からは。脳内で鳴り響く警告を無視してしまった。暑さにやられているんだと、脳が溶けてしまったのだと、誰に対するものでもない言い訳をする。彼が嬉しそうに口を開いた。やめろってば、そう思うも止める者はいない。
「それって、恋じゃないんですか!?」
彼の目は好奇心からかきらきらと輝いている。やっぱりそう答えてくるか、と僕はがっくり肩を落とした。すぐさま否定をするけれど、信憑性は欠け落ちている。だって、気になっている子がいて、はじめは嫌いだったけれど最近は悪い気はしなくなってきましたなんて。他人が聞いたらそう捉えても仕方がないのではないか。
「そうかなあ。僕は違うと思うけど」
「本人は気が付かないものですよ、そういうのって」
「そうかな」
そんなわけ無いだろ。頭の中の僕が苦笑いをしている。もしかしたら顔にも出ているかもしれない。それでも、彼にそれが伝わっていない事だけは確かなようだった。苦笑いをしている人間の前で、彼がこんなに楽しそうに話をするわけがない。
「そうですよ! はじめは嫌いだった、とかもよく聞きますし……」
「よく聞くって言っても他人の話でしょ? 僕は違うと思うなあ」
「俺はそうだと思いますけど……因みにそのお相手がどなたかは聞いても?」
「だーめ」
恋だ何だという話に逸れてしまったのに、実は君の事でした、なんて口が避けても言えない。言えるかよ。そもそも、はじめはかなり嫌いだったとか明言しちゃったし。
「まあいいや。結局よくわかんないし、これナイショね。他の人には言わないで」
「っはい!」
秘密の共有に興奮したのか、彼は頬を少しばかり染めて頷いた。色付いた頬さえきれいな色をしている。整った顔は、そうだ、羨ましい。ああ、もう、何がなんだか。
嫌いだ。憎たらしい。癪に障る。反吐が出る。こんな汚らしい感情が恋であるというのならば、いつの日か見た絵本の、小説の、ドラマの、映画の、あの綺麗に描かれた恋愛とは何だったのか。視界に入って癪に障ると思うのは、気付けば目で追っているからだ。視線を合わせるたびに憎たらしいと思うのは、その顔がいやになるほど整っているからだ。彼を想うと反吐が出るのは、素直になってしまえば嫉妬心と劣等感からだ。それは憧れなんてきれいなものには少しもならなくて、それでも僕だってあんなふうにと、少しでも思ってしまったからだ。それだから、彼が嫌い。そうじゃないのか。わからない。本人からそれは恋だろうなんて告げられて、わけがわからなくなってしまった。脳が混乱している。汗が滲むのは、身体が火照るのは、夏の気温のせいだけじゃないのだろうか。頭が重い。気持ちが悪い。何が恋だ。お前が嫌いだ。
「足立さん」
いつも通り、彼が僕の名前を呼んだ。ぞわぞわと全身が粟立つのを感じながら、いつも通りを心がけて言葉を返す。どうも、だとか、おつかれ、だとかを続けて、少しの間お互いに無言になった。
「あ、足立さん、この間の話の事なんですけど」
ほんの少し照れたように、彼が頬を染める。その反応からして、恋だ何だとか言った相談事のことを言っているんだろう。
「ああ、アレね」
「考えてみましたか? 俺あれから気になってて……」
思春期の男子だ。そういった話題に首を突っ込みたくもなる年頃なんだろう。僕の中で答えは出ていないが、君のせいでかなり面倒なことになってるよ、なんて本心を告げる訳にもいかないので嘘を吐いた。どうかこれで収まってくれ、もう掘り返さないでくれ、と。
「アレさ、考えてみたけど、恋みたいだよ」
「っそうでしたか!」
彼は僕の言葉を聞くと自分の事のように嬉しそうにしている。何が楽しいんだ。そんなに笑顔を振りまいて。
「足立さん、左遷されて彼女とも疎遠になったって言ってましたけど新しい恋が出来たんですね! おめでとうございます!」
「君失礼だな!?」
苛つきのまま突っ込みながらも、楽しそうに微笑む姿に何も言えなくなった。本当に、ほんとうに、綺麗に笑む子だ。汚れのない微笑みは、なんとも憎たらしくて、反吐が出るほど綺麗な子。これが、こんなものが恋なわけないじゃないか。それでも、ふと思い当たる。もし、もしも僕がこの子の事を一方的に好いていたとしても、恋を、していたとしても、この子はきっと可愛らしい女の子と、正当で純粋な、その顔に似合ったきれいな恋をするのだろう。昔見た絵本みたいな。小説のような。ドラマのような。映画のような。順当な恋を。そう考えると何故だろう、胸のあたりがズキリと痛んだ。飛び跳ねんばかりに、純粋に喜んでくれている彼の様子とは裏腹に、僕の胸の内は暗く淀んでいた。
あれ、やっぱりこれが恋なの。