おなかがすいた。
布団の中で意識が浮上してまず初めにそう思った。なによりも空腹をどうにかしてしまおうと、布団を引きずるようにしながらベットからおりてそのまま冷蔵庫を開ける。一旦扉を閉じて冷蔵庫に磁石で貼り付けられたメモを確認した。几帳面な文字で料理名と作られた日付、大体の賞味期限に、温めて食べて下さいと綴られている。食べたものには自分で斜線を引いていて、残る料理がふたつだから、今日あたりか。冷蔵庫からタッパーを取り出して電子レンジに放り込んだ。
電子レンジの稼働音がして、中でタッパーが回っている。出所してからもう一ヶ月になるだろうか、ここでの生活も大分慣れてきたように思える。とある彼の強引な介入によって、思い描いていたよりも遥かに生ぬるい生活を送ってはいるけれど。
あの日、あの日確か、まずはじめに目に入ったのは雨が振りそうな空だった。期間としては長い、それでも罪を償うには短い刑期を終えて、十数年ぶりだかに外に出た感動といったものはそれ程なかった。静観な街並みはいやになるほどに平穏で、雨を予感させるコンクリートの匂いが生々しい。雨が降る前にどこか屋根を探そうか、そんな心持ちで一歩踏みこんでから、一体どこへ行けばいいのかと頭を悩ませた所に彼の声が飛んできた。最後にあった日と同じトーンで、同じ声をして「足立さん」と。彼は昔のような、好青年、といった印象をそのままに大人らしくスーツなんかを着こなしているから、大きくなったなあなんて、なにより先に親戚のような感想を抱いてしまった。当たり前のように行きましょうと手を引く彼に僕は色々聞かないといけない筈だったのに、久し振りの外界と突然あらわれた懐かしい顔に忙しい頭はうまく回ってくれず、早足で行く彼の後をつい追い掛けた。何でついて行っているんだろうと思いながらも正直、あの時は内心ほっとしていたのだ。外へ出て来た感動も特に無かったけれど、これから何をしたらいいのかの検討も付いていなかった。検討を付ける事が億劫になっていた、といった方が正しいか。そこに現れた見知った顔に、不覚にも。
そのまま彼の後をついていって、それなりに賑わっている駅で彼が買った切符を使って電車に乗った。電車内の数十分間は、お互い無言で吊革に掴まっていた。どこへ向かっているのかくらい聞けばよかったろうに僕は車内広告なんかをぼんやりと眺めたりなんかしていて、その微妙な沈黙は、彼が次降りますねと言葉を発するまで続いた。
聞き覚えの無い名の駅を出て──その駅が今では最寄駅となっている──、また歩いて。貴方が決めてください、と言いながら、彼は他の選択肢を選ばせる気が無いようだった。そう条件の悪くないマンションに連れてこられて、ここに住みませんか俺の家とも遠くはないので様子見にこれますし家賃は落ち着くまでこちらで払うので、なんて言われて、そこまで用意されていて、いいや要らないだなんて誰が言えようか。この子供にここまで世話を焼かれたと思うと少しは腹も立ったし、彼と出会った頃の自分ならもしかすると要らないと言っていたのかもしれないが、幾年ぶりに手にしてしまった当たり前の自由に疲労した自分はそれを断るメンタルを持ち合わせていなかった。わかった、と自分でも情けなくなる声で頷くと、彼は安堵したように微笑んで、気付けば窓の外には雨が降っていた。
温まった煮物を口に放り込みながら箸を持たない方の片手でカーテンを開ける。レースカーテンから透けて差し込む光が眩しく目を細めた、もう午後になる。休日だからと寝過ぎただろうか。ぼんやりとした頭で掬った米を口に運ぶと、玄関のチャイムが鳴った。誰だろう、そう思いながら動くのが面倒で咀嚼を続けた。ごはんはよく噛んで食べた方がいい。どうせこの部屋に用事がある人間なんて、何かの勧誘か無駄に甲斐甲斐しい彼くらいなのだ。そして例の彼はどうしてかこの部屋の合鍵を持っているから、食事を中断させてまでチャイムに出る必要はない。米を熱心に噛みながらチャイムに出ない言い訳を自己完結させていると、ガチャリと鍵の開く音がした。やっぱり、彼じゃないか、鍵を持っているならチャイムを鳴らさないで入ってくればいいのに。心の中で文句を言いながら僕は食事を続ける。
「あ、足立さん、起きてたんですか……」
呆れたような声に頷いて返す。彼は両手にビニール袋をぶら下げて部屋に入ってきた。
「居るなら開けてくださいよ、荷物持ったまま鍵開けるの結構面倒なのに」
「今度から気を付けるね」
「それ前も言ってたじゃないですか」
そう言いながら彼はビニール袋を床に置いて、その中のいくつかを冷蔵庫にしまった。この子は何故か僕の部屋の合鍵を持っているし、何故か一週間に一度か二度くらいこうして顔を出して、料理を作って置いていく。今度は何を食べたいですか、あれを作っておきますね、なんてやりとりももう何回目か分からないくらいは続けられていた。
ひとくちをよく噛んで喉を通す。その間に彼は荷物を置いて、机を挟んだ向かいに腰掛ける。
「何か食べてきたの?」
「朝食はまあ。お昼は一緒に食べようと思ったんですけど、足立さんもう食べてるみたいですし」
「僕これ朝ごはん」
「普段はちゃんと食べてるんですよね……?」
怪訝な顔をする彼に、冷蔵庫を見れば分かるでしょと返した。几帳面なのか熱中型なのか、やり込むのが好きな悠くんは、冷蔵庫にきっちり次にくる日までのオカズを置いていっている。それで残っているものがふたつだから、まあ今朝食べ忘れただけで、今日の分までピッタリ。彼は僕の言い分に疑いの目を向けつつも諦めたように息を吐いた。文句を言われる前にすかさず話を戻す。
「悠くん昼どうすんの」
「あー……足立さんが食べるならちゃんと作ったんですけど。冷蔵庫の温めて適当に食べようかな、余ってるみたいですし」
「トゲがある言い方だねえ。僕もうちょっと食べられるよ、朝食べてないから。一緒に食べよ」
「……そうですね、食べましょうか」
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朝食にしては遅い、昼食にしては少々早めの食事を終えて、二人で手を揃えた。午後の陽気で部屋が暖まり、やさしい日差しと気温につい瞼が重たくなる。うとうととこのまま昼寝してもいいかと思っている僕をよそに、彼はせわしなく働いていた。休みだから来ているんだろうに。こんなおじさんの世話なんかしちゃって、可哀想に。食器の水気を拭きながら、彼は問いかけた。
「夕飯、何がいいですか。特になければ適当に作っちゃいますけど」
「別になんでもいいよ」
「あ、今夜俺泊まるので」
「……聞いてないんだけど」
言ってませんでしたっけ、彼がくすくすと笑う。絶対にわざと言ってなかったな。まあいいか、この間泊めたときの布団、どうしたっけ。ふかふかと、日の差したベッドに半身だけ身体を埋めて考える。ええっと、この前干して、いつものところにしまって、いつものところってどこだっけ、えーと……あれ?
…………
鼻を掠めるのは味噌の匂い。これは多分……白味噌、僕がこの間好きだって言ったやつ。ゆうくんこんな時間から夕飯つくってるの…………ん? こんな時間……?
目を開けて、重たい体をベッドから引き剥がす。カーテンは既に閉められていて、部屋の明るさを保つものは蛍光灯だった。外はきっと暗い。時計を見ると結構な時間を寝て過ごしていたようだった。ぱちと瞬きをしてキッチンを拝めば、そこにはエプロンをした悠くんがオタマを片手に微笑している。
「あ、起きました? ふふ、和食でいいですよね」
「笑うな……うん、ありがと……」
なんだかバツが悪くて口ごもる。部屋の真ん中のちいさいテーブルに、焼き魚とお浸し、あとほかほかのごはんが並べられている。嫁か? 出来過ぎた子だ、少々口惜しくなりつつも感心していると、今起こそうと思っていたんですよと、微笑んだ彼が味噌汁を運んできた。出来過ぎた子だ、全く。
「いただきます」
「なんか、さっき食べたばっかりの気分なんだよなあ。食べるけどさ」
「ずっと寝てましたもんね、最近お仕事忙しかったんですか?」
「まぁ、ぼちぼち」
君だって仕事があるだろうに、空気の良くなった部屋は寝ている間に掃除でもされたのだろう。気が利くというか、やり過ぎというか。焼き魚を噛んで呑み込んで、僕は本当に、本当にただの世間話のようにこの言葉を発した。
「何で君はこんなにしてくれるんだろうねえ」
「…………」
返事が無いことを不思議に思い顔を上げる。僕の言葉に毎回数コンマも置かずに返してくる彼が、箸を中に浮かせたまま固まっていた。ゆっくりとした動作で、彼は箸を箸置きに戻して唾を飲む。
これは、聞いてはいけなかった。ずっとそうだ、彼が数十年ぶりに迎えにきたあの時も、都合のいい部屋をあてがってくれたあの時も、作り置きをしていく毎日も、たまに部屋の掃除をした日も、一緒に食べるようにとご飯を作って食べた日も、そのまま流れるように泊まっていった日も、この質問だけは無意識に避けていた。きっと、お互いに。
僕も箸を机に置いた。
「俺達、昔はこんなに近い仲じゃなかったんですよね」
ねえ、何を言おうとしている?
「叔父さんがいて、菜々子がいて、俺がいて、そこにたまに足立さんがいて、夕飯を食べたじゃないですか」
どこに触れようとしている?
「もう会わない、なんて何回か言われて、貴方にもう一生会えなくなると思ったら怖かったんです。どうしてだろう、叔父さんと菜々子と貴方と囲んだ夕飯がたのしかったんですよ、俺は貴方を他人だと思えない。だからといって、貴方のした事を許せない、でも、」
「…………」
声を出す方法を忘れてしまったかのように、僕は何も言えなかった。鳴上悠は目を伏せながら言葉を続ける。いかないでと泣いている子供のような口調だった。みんなで、あなたをつかまえてから、ひとりになるたびに、
「貴方が死んだらどうしようって……」
絞りだすように発せられた声は震えている。僕の、指先も同じように。罪を償うと決めたあの時僕は確かに死刑を望んでいた。二人の人間を殺めた、けれど自分が人生を狂わせた人間はその二人だけではない。模倣犯によって殺された人間、自分が原因となり罪を犯してしまった人間、遺された家族。それと、あの霧と、騒動。自分の死ひとつなんかで償えるはずはなかった。だとしても、裁かれたかった。それでもあの奇妙な一連の事件は、現実のルールとやらに当てはまってはくれなかった。そして足立透には、罪を贖うのには短過ぎる刑期が告げられた。
ここで、僕はやっと自分が声を出せる事を思い出す。開いた口から喉に息が吹き抜けて、掠れた音が鳴る。
「死んでも償えなかったよ、きっと。今も」
「……そうですね」
否定しないのか、この子は。自分は赦されていない、彼の言葉が全て素直に溢されているのだと思うと、何故か喉の奥が張り詰めたように痛んだ。あのさあ、キリキリと傷む喉から声を絞りだす。
「君はどうしてこんなに僕に執着するの」
もう一度、言葉を変えて、今度はしっかりとその質問を投げかける。彼はぱちくりと目を瞬かせてから心底申し訳なさそうに眉を下げた。三往復ほど目を泳がせて、口を開いて数秒動きが止まる。その頬には汗が伝っていた。
「ひとことで言うなら、ですけど、足立さんの事が好きなんです」
は? という声が口をついて出る。聞き間違えでは無いだろうかと、目を丸くした所に彼がもう一度すきなんですと繰り返した。緊張から唾を飲み込む音が、随分近くで聞こえるような気がする。
「本気で言ってるの。僕を好きって、だって、それを言葉にしたら君、いろんなものを、」
裏切る事になるんじゃないの。最後まで言葉を繋げられずに、顔が引きつっているのが分かった。なんとなく、わかってはいた。気付かないようにしていただけで、こんなやつにこんなふうに世話を焼くなんて、下心だとかそんなもんくらいなけりゃ無いだろうと。面白い所なんて少しもないのに口から乾いた笑いが漏れる、表情筋がパニックでも起こしているのか。彼は視線を机に落としたまま、淡々と言葉をこぼす。
「人が人に対して向ける感情ってひとつじゃないと思うんです。俺は貴方が憎い、到底許せない。でも、とても責められない、好きです、ごめんなさい」
「どうして……」
答えを聞いたって意味の無い問いに、彼は律儀に返答する。
「だって貴方が、サボる口実に付き合ってって、料理がうまいねって、家に帰ってもひとりなんだって、笑ったから。俺だって自分がどうしてこんな事しているのか、わからない」
僕は、君に好かれていい人間じゃない。君だって僕を好いていい筈が無い。なあ、そうだろう。自問自答の末パンクした頭を支えきれず額に手をあてた。自分の指先が冷たく感じる、鼓動が、酸素が足りないと喚いているものだから、大きく息を吸った。どうしてだとか問いかけて、彼に言葉にさせなければ、僕たちはこの生温い生活をもうすこし続けられたんだろうか。呼吸音が大きく聞こえるほどにこの部屋は静まり返っている。指先の震えは収まらない。彼が顔をあげる。その瞳の力強さは、数十年前の、相対したあの日となにも変わっていなかった。力強く、眩しい。
「俺といれば貴方は、罪を忘れないでしょう」
俺といる事が罰になりませんか、と、そう言って鳴上悠は、凛とした表情で僕を真正面から見据えた。
それに答えて僕はどうなる? ねえ、ご飯冷めるでしょ。勿体無い、美味しいのに。