放課後、クーラーの効いた教室から出てしまえば太陽が容赦なく半袖から出る肌を焼いて、じめじめとした熱気はサウナを思い出させた。コンクリートの照り返しを睨みつけながら歩いていれば、こちらに寄せるように一台の車が停車する。
「乗ってく? ちょっとドライブしようよ」
見知らぬ車からそう声をかけられ驚きながらもよく見れば、そこには車の窓を半分開けてからからと笑う、足立さんの姿があった。
「足立さん……どうしたんですか」
「ちょっと仕事で、もう帰るとこなんだけどさ。なんか馬鹿らしくなっちゃって。どう? ドライブデート」
いたずらっぽく笑む彼は少し疲れた顔をしていて、それでもそれを俺に隠そうと笑っている。そんな彼に調子をあわせて言葉を返す。
「……悪いんだ、足立さん」
「いいの。帰る時間伝えてないもん」
行かないの? 首を傾ける彼を断るという選択肢は俺にはなくて、車内から漏れるエアコンの涼しさにもつられてすぐさま助手席に乗り込んだ。
エアコンの効いた車内は、湿気と暑さをまといながら歩く帰路よりは、とてつもなく快適だ。署から借りているという車からは他所の匂いがする。足立さんの家とも、叔父さんの家とも違う知らない匂い。運転席の足立さんは、俺が誘いに乗ったことで多少の憂さが晴れたのか、鼻歌なんかを歌いながら上機嫌に車を走らせていた。
「でも、君がサボりに付き合ってくれるとは思わなかったよ。暑かったでしょ、外」
エアコンの風量をいじりながら彼が問う。暑かったに対して肯定してから、ひと呼吸おいて呟いた。
「デートなんて言われたら、ついてきちゃいますよ」
「ああ、そっちか」
運転席の足立さんを見ながら話せば、彼はそっと目尻を下げる。思い切って彼に告白した日、なにをどうしてかOKをもらい、俺達はお付き合いしている……事にはなっているのだけれど、それは恋人同士というよりも恋人ごっこのようなものだった。デートと言っては誘い、近場に出掛けて、ひと目につかない場所で隠れて手を繋いで。それだけだ。彼から好きのひとつも言われていないけれど、高望みをすれば傷付くだけだろうと、俺はそれで満足していた。
「たまにはいいでしょ。大人っぽい所もみせたいしね」
彼の言葉に目を丸くする。そんな事、思っていてくれたんだろうか。本当に? 疑心暗鬼になりながら言葉を返す。
「車を運転する足立さん、格好いいですよ……」
「…………調子狂うなあ」
「署の車じゃなければもっと良かったですけど」
「それは、まあ、仕方ないじゃない」
はは、と彼が笑みをこぼせば、俺の顔も自然とほころんだ。なんだか、今日はいつもより距離が近いような気がする。今までが嘘だったという訳ではないのだけれど、本当にデートみたいだ。
「俺も免許取ったら、足立さんを隣に乗せたいです」
「いいよ、楽しみにしてる」
車を運転しているからなのか、この車で向った仕事先であった何かのせいなのか、今日の足立さんはいくらか素直だ。勘違いしそうで、少し怖くなって視線を風景にうつした。
「仕事なんてね、クソ食らえだ。真面目にやってたらもうやってらんないね」
「……お疲れ様です」
それでもこんなふうにサボっていたら怒られますよ、そんな言葉が浮かんだが、ここで叔父さんの話を出すのは不正解だ。だからといって上手な労いの言葉も浮かばない。彼は仕事の憂さ晴らしに俺を選んでくれたのに。
「何があったか聞かない?」
「聞いてほしいですか?」
「べっつにい」
足立さんは似合わない安全運転で、前だけを見ている。
「そういえば、どこに向かっているんですか」
我ながら下手な話の切り替えだ。彼は俺の失敗に気付いて苦笑いをしながら「どこにも向かってないよ」と答えた。信号待ちの車内に静寂が訪れる。何かを話すべきかと口を開いて、何も思い付かずに噤んだ。
「……そんなに緊張しなくていいよ、今更じゃないの、二人で出掛けるとか」
「いえ……」
緊張している訳ではないんです、そう言おうとして足立さんの方を向こうとすれば、彼の顔がやけに近くにあった。驚いて退く間もなく唇に何かが触れる。それが何なのか理解したのは、信号が青に変わってからだった。ゆっくりと車が発進する。あんぐりと口を開け彼の横顔を見つめていた。彼の耳が少しだけ赤くなっていて、頬が熱くなるのを感じた。無言で過ごす車の中は、エアコンが効いている筈なのに火照ったようなあつさで包まれていた。
「降りようか」
彼の一言で車が停まる。
「ここって……」
車を降りずとも、目の前に広がっているのはオレンジの砂浜と紫色をした海だった。足立さんがひと足先に車から降りる。彼は少しはしゃいでいるのか、伸びをしながら楽しげに話した。
「うん、海! いいよね、夕暮れの海。もう誰もいないんじゃない? んー特別感!」
遅れて俺も車から降り扉を締めた。彼が車に鍵をかけてポケットにしまったので、ここに長居をするんだということがわかる。
「どうして海に?」
「夏といったら海でしょ」
「もう誰もいませんけどね、あと、水着もないし」
「これだから子供は……海の楽しみ方は泳ぐだけじゃないんだぞ?」
にっこりと微笑む足立さんに、やっぱり今日は何かが違う、と思った。拭えない違和感の正体にたどり着けずに頭を掻く。足立さんはそんな俺をよそに、スキップでもしそうな足取りで砂浜に降り立った。
「海だーっ!」
「や、やっぱり足立さん、何かありました!?」
「あったよあった! バァーーーカ!!」
「あ、足立さん!!」
海に向かって腹を抱えて叫ぶ。いつもと違いすぎる様子が心配になって慌ててあとを追いかけた。肘まで捲られた袖を引っ張れば、彼はなあにと振り返って笑う。
「なに、って、足立さん、あの、俺でよければ」
「別に話聞いてほしいわけじゃないよ」
「っ……」
彼は楽しげに靴と靴下を脱ぎ捨て、車の鍵と携帯電話を放りなげて、裾を捲り波打ち際まで駆けていく。俺も慌てて靴を脱いだ。一応、ハンカチと携帯を靴の脇において、脱ぎ散らかされた足立さんの靴たちをまとめて自分が脱いだ靴の横に置く。
「あー、ぬるい! ゆうくんもおいで」
ふにゃりと笑う顔は愛おしいけれど、そのまま海に沈んでしまいそうで不安になる。いまいち楽しんでいない俺を見かねてか、足立さんが海水を両手ですくって俺にかけた。
「ぶわ、や、やめてくださいっ」
「あはははは!」
俺の濡れた服を見て彼が楽しげに腹を抱える。
「足立さん! 足立さん!!」
何度呼びかけても応えてはくれない。水遊びに夢中になっている彼の両手をきつく握った。
「足立さん」
「………………なに」
「俺に出来ることがあったら、何でも言ってください」
「何でも? それならさ」
僕を助けてよ、と彼は笑顔で呟いた。
やっぱりやめましょうか、そう放った俺の言葉で、足立さんの機嫌が見るからに悪くなった。だって、やっぱりこんなの、もしも、もしも彼が望んでいたとしたって、俺の希望ではない。
生ぬるい水にふたりで喉元までつかって、俺より数歩先を歩いている足立さんはもういくらか海水を飲み込んでしまったようだった。咳き込みながら悪態をつく。
「っ君が言い出したのに。このまま海に、なんてさ」
「ごめんなさい。だって貴方、そうしたかったんでしょう」
彼の腕をひっぱって引き寄せた。そのまま抱き寄せてキスをすれば、塩っぽい海の味がする。
「ん」
「足立さんしょっぱい」
「君だって」
いくらか機嫌が治ったのか、足立さんはにいと笑って、俺の手を握り浜辺へ向かって歩み始めた。彼が本気で死ぬ意志を持っていたわけではないとわかって、なんだかほっとする。自分から、彼の望みを叶えたいと思って言い出したくせに、彼が本気じゃなかった事にほっとしている。
「寒い、ですね。夏なのに」
「全身濡れたらそりゃあね」
夕暮れ時の風にあたると、濡れた身体が肌寒い。彼が砂浜に置きっぱなしになっていた携帯電話と車の鍵を拾う。脱いでおいた靴下をはいてみると、海水でベタついて気持ちが悪かった。ハンカチを拾い、砂をはらって足立さんに差し出す。
「あー、それじゃ足りないでしょ、どうかんがえても」
「そう、ですよね……帰るまでに乾くかな……」
「無理だよ無理、車濡れちゃうなあ。僕のじゃないからいいけど」
「堂島さんになんて言いましょうか」
「君が考えてよ」
「……わかりました」
お互い何もなかったかのように車に乗り込むけれど、濡れた全身が先程までの行為をありありと物語っている。彼が運転する帰りの車の中で、ずぶ濡れの言い訳を必死で考えた。