主足

【主足】ウニャア

 足立さん、猫好きですか。その問いにどう答えたのかはよく覚えていない。別に興味がないと正直に答えたのか、まあまあ好きだよとでも言って適当に話を合わせたのか。どちらの答えを告げてもきっと彼は同じようにやわらかく笑っただろうから、自分がどう答えたのかは記憶からすっかり抜け落ちていた。そう聞いてきた彼が撫でた猫の退屈そうな欠伸と、後ろのブロック塀についていた傷のかたちは覚えているのに。
そんな事はどうでもいいかと、足元にすり寄ってきた猫の背中を撫でる。野良猫なんて前まで住んでいた都会ではそうそう見掛けなかったし、居るか居ないかすらも気にしていなかったくらいなのに。彼と猫を交えて話すようになってから、やたらと懐かれてしまっていた。

 きっかけは確か、6月下旬。梅雨にしては良く晴れた休日。聞き込みと称してサボり歩いていた途中でたのしそうに猫を撫でる彼を見つけた。道の端、塀の上で気持ちよさそうに眠る猫に、そっと手を近付けて撫でる。猫はそれにニャアとかえしてまた眠った。しばらくそこで野良猫とたわむれている彼を見て、猫を撫でるだけで何が楽しいのかと、不思議に思って声をかけたのだ。楽しいの? そう聞くと、彼は律儀に挨拶をしてから、楽しいです、と。
「この辺りの猫は人懐こくて、結構撫でさせて貰えるんですよ」
「撫でさせて、ね」
 興味本位で手を近付けて、猫の頭を触ろうとする。すると眠っていた猫が突然目を開いて、ウニャァと仰々しく威嚇しながら僕の手を振り払った。
「わっ!」

 叩かれた手をすぐに引っ込めて擦る、見たところ傷にはなっていないらしい。いわゆる猫パンチというやつだろうが、かわいい名前の割にかわいいパンチでは無かった。隣で見ていた彼は吹き出すのを我慢するみたいに笑っていて、気分がよくないので睨みつけると、口元に笑みをこぼしたまま すみません、と付け足した。
「いきなり上から手が伸びてきたらびっくりしますよ、懐こくても野良なんですから。ゆっくり触りにいかないと」
「そうなの……」
 怒った様子で息を荒立てる猫に、鳴上くんがゆっくりと指を近付ける。猫は差し出された指を確認するかのように鼻を近づけてから、落ち着いたのかそっぽを向いて座り直した。なるほど、僕が手を出した時と大分反応が違う。

「撫でてみますか」
「やだよ、また叩かれるでしょ」
「さっきのは撫で方が悪かったんです! いいですよ猫、やわらかいし。あったかいし」
 期待の目を向けられて、おずおずと猫に手を伸ばす。彼の真似をして顔の前に手を近付けると、猫はしばらく指を睨みつけてから興味なさそうに目をつむった。おそるおそる、指を猫のおでこにのせる。怒りだす気配もないので、そっと、毛並みにしたがって頭を撫でた。ふわっとした不思議な感触が指に伝わる。
「うわ、ほんとだ。やわらかい」
 なんだろうか、肌心地のいい毛布みたいな。それとは違うか、確かに初めて触る心地だ、柔らかい。はじめての感触につい声を弾ませると、彼が嬉しそうにこちらの様子を見つめていた。居心地が悪くなって猫から手を離す。

「猫なんてはじめて撫でた」
「俺も最近です。自分か知り合いが飼ってないと撫でる機会なんてないですよね」
「都会では滅多に野良猫見ないしね」
「わかります」
 そういえば、この子も同じように都会から来たんだっけか。都会から田舎に越してきて、休日にやっている事が野良猫とたわむれる事だなんて、高校生にしては随分と可愛らしい。もっとやる事ないんだろうか。ないのか、ここじゃあ。
 ふと、興味があるわけでは無い、ただ間を繋ぐためだけに、猫好きなの? と訪ねた。

「いえ……あまり考えた事無かったんですけど、可愛いですね。猫」
 彼が猫の頬をつつくように撫でると、猫はくあ、と退屈そうに、大きく欠伸をした。鳴上くんはそれを見て笑いながら、真似をするみたいに僕に質問を返す。
「足立さん、猫好きですか。」
 彼がやわらかく笑う。その問いへの答えはやっぱり思い出せなかった。

 思い出したいとか、思い出さないといけないとか、決してそういった使命感じみた事は考えていないのだけれど。一度気にし始めてしまったら何だか気になるような……まあどうでもいいような。
 河川敷のベンチに腰掛けようと歩けば、先程から何故かくっついてきている野良猫も当たり前のように後ろを付いてきた。僕が座ったのを確認すると図々しくも膝の上にのっかる。
「重いよ、おまえ」

 猫の頭を指先で小突く。もちろん、強くして怒りだしてはこわいので、優しく。猫は一瞬迷惑そうにこっちを見てから起き上がって、どこかへ行くかと思えば体制を変えただけでまた座った。居座るつもりらしいので、手持ち無沙汰でなんとなく撫でる。相変わらずやわらかい。早く退かないかな、そう思いながらもやわらかな毛並みには逆らえず、しばらく撫でると、猫がゴロゴロと喉を鳴らしだした。呑気なものだ……こうして仕事をサボっている自分が言えることではないのか。
 猫が退いてくれないという理由で、このまま仕事をサボっていてもいいだろうか。いや、普通に考えて駄目か。堂島さん、もしかしたら猫とか好きじゃないだろうかと、猫を膝にのせた上司の姿を思い浮かべてみる。浮かべてみるも、猫を扱いきれずあたふたしている様子しか浮かばずに苦笑した。菜々子ちゃんは喜びそうだな、小動物とか。一応あの鳴上くんのいとこな訳だし。
 膝の上の猫は柔らかい上にあたたかい、昼間の陽気と、田舎ののんびりとした空気も相まって眠たく、小さく欠伸をかんだ。膝の上の猫も続けて欠伸する。
「ハハ、うつった?」
 猫がねだるように顔を持ち上げるので、喉を撫でてやる。猫は気持ちよさそうに目を細めた、顎下はとくにやわらかくて、その手触りについ笑みが溢れる。

「欠伸って猫にもうつるんですね」
「ウワッ」
「わ、すみません。」 
 毎度毎度、彼は音もなく近付いて背後から声をかける常習犯だ、そして僕は毎回被害にあっている。面白がってわざとやっているのか、ただ単に影がうすいのだろうか。わからないけれど、もし前者だとしたらいつかやり返してやろうか。
「脅かさないでよ、君、いつもいきなり声掛けてくるね」
「可愛いですね猫」
 僕の文句はスルーして、鳴上くんは膝上の猫を指した。この野郎、咎める視線を投げるも目を逸らされる。このまま文句を続けるのも大人気ないかと、目線を猫に戻した。猫は変わらず喉を鳴らしている。
「……重たいよ」
「暖かそうです」
「まあ、確かに」
 彼は当たり前のように隣に腰を掛けた。他にも椅子があるんだから、わざわざ隣に座らなくてもいいだろうに。こっちは猫を乗せていて動けないんだから気を遣え、そう思いながらも、この子には何を言っても仕方ないだろうと諦めていた。ぽやんとして流されそうにみえて案外我が強いのだ、こういうタイプの子供は。彼が背もたれに寄りかかると、古びたベンチは軋む音を立てた。ベンチを軋ませながら、鳴上くんが口を開く。

「最近釣りにハマってて」
「へえ、釣り」
「釣った魚を猫にあげたら、嬉しそうに食べるんですよ」
「え、いいの? 勝手に餌付けして」
「結構皆してるみたいです、野良というよりこの辺りの皆で飼ってる感覚みたいで」
 この辺りの人達がよく言う、地域の繋がりって奴だろうか。それでも彼のように魚を釣ってまで餌をあげている人間は少ないだろう。飼っているわけでもない野良猫相手に、そこまでしなくてもいいだろうに。いや、それが苦にならず出来てしまうのがこの子か。全くなんというか、恨めしい。

「増えたらどうすんだか」
「可愛いと思いますよ、子猫」
「そういう問題じゃないでしょ。まあ、ここの人達なら世話するんだろうね」
「足立さん飼いませんか?」
「は? 飼わないよ。産まれんの?」
 何言ってんだと目を向けると、彼は猫を見つめてうれしそうに目を細めていた。そんなに好きか、猫。寝てる猫なんか見てても、あんまり動かないのに。
「野良猫より家猫のほうが毛並みが柔らかいらしいですよ」
「飼わないよ、飼えないし」
 飼ってみたいなあ、と鳴上くんが微笑む。彼が僕の膝で丸くなった猫をひと撫ですると、猫は僕の膝からひょいっと飛び降り彼に擦り寄って、今度は彼の膝の上に座り込んだ。
「にげられた。」
「俺のほうが、魚あげてる分有利ですね」
「競ってないよ、別に」
 勝った、みたいに嬉しそうなドヤ顔を披露する彼を一蹴してため息をつく。猫のほうはマイペースで、彼の膝の上でだるんと身体をのばして横になった。猫ってこんなに背中が伸びるのか。その、引き伸ばされたような猫らしからぬ体制がおかしくて軽く吹き出す。弓なりに反った背は猫背と言い難く、撫でると猫は更に背中を伸ばした。
 それを見ていた鳴上くんが、ふと不思議そうな顔をする。
「あの、嘘だったんですか、あれ」
「何?」
 彼は猫の頭を撫でながら、ぱちと瞬きして首を傾けた。
「足立さん、猫そんなに好きじゃないって言ってたじゃないですか」
「あ。そうだっけ」
「そうですよ」
「あー……そっか、じゃあ」
 君と話してるうちに結構好きになってたのかもね。僕はちいさく呟いて、それを聞いた彼は驚いたような顔からふにゃりと、やわらかく笑う、膝の上の猫はのんびりと欠伸をしていた。