鍋の焦げた臭いが鼻を掠めて、やってしまった、と我にかえった。急いで火を止めるも、鍋の底も食材も真っ黒に焦げ朽ちている。今月でもう三つ目だ。稲羽にいた時は調理法や調味料を間違えることはあれど、こんなに酷い失敗はしなかったのに。新しい鍋を買いに行かないと。今月の小遣いはいくら残っていたっけ……焦げ臭さと少量の煙が充満したキッチンで、気力が尽きて床にへたり込んだ。
どうしてこんな事になっているんだっけ。数十分ほどの記憶がすっかり抜け落ちている。確かぼうっと鍋が沸騰しているのを眺めていたのだ。何もすることも無く眺めていて、沸騰する鍋を何もすることも無く眺めていたら……それはまあ、焦がすだろう。この頃、何かがおかしい。ぼうっとする事が多いし、特に料理の失敗は数知れない。だって、鍋やフライパンまでとはいかなくとも、食材を焦がすのはもう何回目かわからなかった。ただその度に思うのは、焦げた匂いの心地よさ。これではいけない、そう思いつつも、料理中ぼうっとすることを止められなかった。家が火事になる前に、なんとかしないとと思ってはいるのだけれど。俺は床にへたり込んだまま天井を見上げた。都会の、昼間は俺一人しかいない、広い家。俺を冷たく見下ろす天井。陽介にでも連絡をしてみようかと考えて、ポケットから取り出した携帯を開いて、止めた。元気にしているか、霧は大丈夫か、なんて、俺にそんなことを聞く資格はない。俺はただ、ここに帰ってきてからただ、あの人からの連絡を待っている。はやく携帯を鳴らして声を聞かせてほしい。あの人の事が好きだから、救いたいと思ってしまったから、あの街で過ごしてきた一年を丸々裏切るような事を、してしまったのに。
「うああ……」
堪らず倒れ込むようにして床に横になった。キッチンの床がひんやりと頬を冷やす。このまま全部放棄して眠ってしまおうか、そんな事を思っている所に、携帯の着信音が鳴り響いた。驚いて起き上がって画面を確認する。そこには、待ち焦がれてやまない彼の名前が表示されていた。深呼吸をする間も惜しくすぐに通話ボタンを押して耳にあてる。
「お、すぐに出たね。えらいえらい」
「ッ足立さん……」
「あのさぁ、急で悪いんだけど今家に居る? 居なかったらすぐに帰ってきて。君の家の前に居るから」
「へ?」
悪いんだけどと言いながらも、少しも悪びれる様子なく足立さんはまくし立てた。困惑で固まっていると、ねえはやく、と催促の声がかかる。
「い、家にいますっ、今開けます!」
転びそうになりながら玄関まで走って、鍵を回した。するとすぐにドアが開いて、足立さんが顔を覗かせる。
「久しぶり、共犯者さん。元気してた?」
愛しくてやまない彼がそこに立っている。すぐには信じられずに立ちすくんでいると、足立さんは遠慮する様子もなく靴を脱いで家に上がった。あの町でよく見たスーツ姿ではなくいくらかラフな格好をしていて、肩にはボストンバッグを下げている。これは彼の私服なんだろうか。
「どーせ両親いないんでしょ、一応菓子折り持ってきたけど」
「い、居ません、出張だって言ってたので、少なくとも今夜は居ません」
「そ。まあ一応渡しとくね。口に合うか分かりませんが」
「あ、えと、どうも……」
彼が紙袋を差し出すので、訳もわからずに受け取った。袋からすると有名店の菓子折りだ。一応、と言っていたし両親がいれば挨拶をするつもりだったのだろう。ずかずかと家の奥に入っていく足立さんを追いかけながら疑問を投げかける。どうして来てくれたんですか、そんな簡単な言葉もうまく声にならない。
「あの、ど、どうして……」
「休暇もらったから。場所は堂島さんに聞いたし」
「連絡くれれば、よかったのに」
「いきなりのほうが君ビックリするでしょ」
「そうですけど、えっと」
リビングまで来て、とりあえず椅子に座ってもらった。椅子の横に無造作に置かれたボストンバッグが異物感を放っている……この家に俺以外の人がいる。何か出さないと、そう思い冷蔵庫を開けても残念ながらペットボトルのお茶しかなく、仕方なくそれを取り出してそのまま足立さんの前に置いた。叔父さんの家と違って、コーヒーも出せない。インスタントのコーヒーくらいならきっとどこかにあるのだけれど、おかしな事にしまってある場所を思い出せないのだ。たった一年離れていただけなのに。何もない、この家には、少なくとも、俺にとっては。
「どーも」
「いえ……」
机を挟んで彼の前の席に座る。この人がこの家にいる事が不思議で、未だに幻覚でも見ているかのような心持ちだった。
「あのさ、この臭い、なに?」
足立さんが顔をしかめる。そういえばコンロの上に焦げた鍋を置きっぱなしにしていた。
「す、すみません、鍋を焦がして、いま換気しますっ……」
「ああ、そうなの。いいよいいよ、そんな焦んなくて」
慌てて立ち上がろうとした俺を彼がたしなめる。目が合うとにこりと微笑みかけられて、つい視線をそらした。この人は、稲羽でもこんなに優しい表情をしていたっけ。彼が机から乗り出して俺に顔を近付ける。
「へ」
「クマ、ひどいね」
「っそうですか……?」
「うん、顔色も悪い」
足立さんの指先が俺の頬に触れた。近すぎる距離に驚いて後ずされば椅子が音を立てて床と擦れて、彼はその様子をみて楽しそうに笑っている。
あれから……霧の晴れない稲羽から自宅に帰ってきてから、眠りの浅い日が続いている。布団に潜っても眠れない夜中に、家の中で何もしない時間を過ごしている時に、朝意識が覚醒した際に、様々な声達に責められる。お前が悪い。お前が。あの時、あんなふうに。
「眠れてないの?」
「あ、足立さん……」
足立さんはわざとらしいくらいに優しげに、心から心配しているような表情で、俺の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫です」
「そう? ならいいけど。ちゃんと食べてる?」
俺がギクリと肩を揺らせば、彼は駄目だよぉ若いんだから、なんて頬杖をつく。食欲がないわけではない。作ろうとしても焦がしてしまう事と、食欲よりも食べる事への面倒臭さが勝っているだけで。足立さんは俺が差し出したペットボトルのお茶を一口飲んでから、のんびりと口を開いた。
「夕飯、つくろうか。一緒に」
「え?」
「え、じゃないよ。まさか食材もないの?」
「いえ、えっと、あの、さっき焦がして……」
そう、先程焦がした食材が最後で、冷蔵庫にはもうまともな食材は入っていなかった。足立さんは変わらず笑顔のままだけれど、呆れられているのではないかと情けないような気持ちになる。
「買いに行こっか、ついでに新しい鍋も」
「え……は、はい」
優しい顔で笑む彼の言葉に、頷く事しかできない。
家から近いスーパーまでは地下鉄を使う。足立さんは都会の匂いがするね、なんて楽しそうにホームを歩いた。駅に隣接したスーパーは、時間帯もあってか普段買い物に来る時より空いている。
「鍋、どんなのがいいとかある?」
「いえ。あ、でもまた焦がすかもしれないので、安いのでいいかと……」
「ふうん。まさか今日が初めてじゃないの?」
「……情けない事に」
「君らしくないね、料理得意そうだったのに」
「まあ……」
「あ、鍋こっちだ。とりあえずカゴに入れちゃお」
「はい」
数種類並んだ鍋の中から一番安いものを買い物カゴに入れる。鍋を選んでしまえば、足立さんが首を傾けた。
「何作ろうか、僕そこまで料理しないからさ。レトルトでもいいけど……せっかく鍋買うんだしね」
「簡単にカレーとかでいいですか、焦がすの、こわくて」
「ん、わかった。じゃとりあえず野菜かなー」
生き生きとした様子の足立さんの後ろをカゴを持って付いていく。彼が楽しそうなのはここが都会だからなんだろうか、それとも、俺といるから。馬鹿みたいな事を考えて首をふった。そんなわけない、でも、彼の笑顔を間近で見て、少しだけでも夢を見ていたかった。
「にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、あと何か入れる?」
「……キャベツとか? 足立さん好きでしょう」
「キャベツカレーにするの? 君がしたいならいいけどさあ……そしたら玉ねぎ要らない?」
「よくわからないので全部入れましょう、よっぽどの事がなければカレーは失敗しませんよ」
「よっぽどの事ねえ……」
口にした食材を、次々とカゴに入れていく。鍋のせいもあり右手が少し重たくなって、鍋を選ぶのは最後にすればよかったかなあ、なんて思いながらもそこまでキツい訳ではないのでそのまま買い物を続けた。適当に目についた豚ひき肉をカゴに入れる。
「ひき肉にするの?」
「はい。歯ごたえがない肉の方が食べやすいかなって」
「ああ君、食べてなさそうだもんね」
「……そんなことは」
ないとは言い切れなかった。語尾は繋げずに、カレー粉が並ぶコーナーまで移動する。俺が手を出す前に、彼が陳列棚からカレー粉の箱を手にしてカゴの中に入れた。
「僕これが好き、これで作って」
「いいですけど……甘口ですか」
「馬鹿にされてるのかなあ。そのメーカー、甘口が一番美味しいんだよね、悪い?」
「いえ……可愛いです」
「……馬鹿じゃないの?」
「すみません」
謝りながらレジへと向かう。店員がバーコードを読取って袋詰めをしていく間に財布を出す。いくら入っていたっけ。足りないという事は無い筈だけれど。
「ああ、すみませんこれも」
足立さんが横からカゴに商品を追加した。500mlの炭酸ジュースが二本。
「な、なんですか」
「お茶だけじゃ味気ないでしょ。ホントは晩酌でもしたいけど君んちでビール飲むわけにもいかないしさ」
「……そういうものですか」
「そーなの」
話をしているうちに店員はレジを打ち終わっていて、レジの画面に金額が表示される。俺が小銭を探していると、足立さんがその分を出してしまった。
「あっ、貴方に払わせるわけには」
「いいでしょ、このくらい。僕も食べるんだし足りないくらいだよ」
「だって」
「うるさいなあ。いくよ」
彼は店員からレシートを受け取ってそれをポケットにしまうと、買い物袋を持ってさっさと出口へ向かってしまう。少しとはいえど払わせてしまった上に荷物持ちまでさせるなんて、すぐに後を追いかけて袋を奪い取った。呆れた顔の足立さんが振り返る。
「強情」
「いいんです、足立さんは居てくれれば」
「なんだそれ」
ぐつぐつと、お湯の煮える音に「焦がしたいの?」と声がかからなければ、きっとまた鍋を焦がしていた。レシピ通りにカレーを作り進めて、炊飯器のスイッチは先に入れておいたし、あとは煮込んでカレー粉をいれるだけで完成する。足立さんが俺の背中を擦った。
「やっぱり君ぼーっとしすぎだよ。あとカレー粉いれるだけでしょ? やるから座っときな」
「……すみません」
言われた通りにリビングの椅子に腰掛けて、だからといってすることも無いのでカレーを煮込む足立さんを眺める。
焦げた匂いが、心地よくて。今日の焦がした鍋だって。
あの日、俺は明確な意思を持って、彼を『救いたい』なんて馬鹿な事を思って、犯人に辿りつく為には欠かせない最後の証拠に火をつけた。足立さんを犯人だと決定づける、最後の証拠品である脅迫状に。ライターの火が紙を焦がす匂いが、頭から離れずにずっと漂っている。仲間たちを裏切ってしまった事よりも、一年間で築いてきた仲間や町の人たちとの絆よりも、足立さんへの想いを選択してしまった。俺は戻れない。霧は晴れないし、テレビの向こう側の世界がどうなっているのかなんてわからない。クマの行方ももう分からない。眼鏡もどこにしまいこんだのか忘れてしまった。もしかしたら、堂島家に置いてきてしまったのかもしれない。仲間たちの別れ際の暗い顔だって、はっきりとは思い出せない。足立さんが、燃え尽きた脅迫状をみて、高らかに笑っていた事だけが脳裏に焼き付いている。あの時、俺がライターに火をつけたから。その火で脅迫状を燃やしたから。仲間たちが霧に呑み込まれる悪夢ばかりを見ている。裏切ってしまった俺は、彼らを、彼女らを、もう仲間とは呼べないのだろうか。
カレーの良い香りが漂ってきて、ああ、できたのか、と意識を現実へと手繰り寄せた。
「すぐ食べる?」
「……はい」
足立さんは優しすぎて、あの事件も、霧の騒動も、はじめから無かったかのようだ。皿に盛られたカレーライスは、じゃがいもが柔らかくて、キャベツが多くて、久しぶりに炊いたお米は水が多かったのか少しべちゃべちゃしていて、炭酸ジュースはカレーには合わなかったけれど、それでも、美味しかった。
「おいひいれす」
「そりゃよかった」
久しぶりにまともな食べ物を胃に入れたような感覚だった。俺はこの人がいないと、まともに生きていく事も出来ないんだろうか。彼からの着信を待つばかりで、自分からかけようなんてしなかったくせに。
大きいボストンバッグを持ってきていた事からなんとなく察してはいたが、彼ははじめから家に泊まっていく気だったようで、俺が皿を片付けている間に勝手にシャワーを浴びていた。いつの間にかソファに座って寛いでいる彼から俺と同じシャンプーの匂いがしてドキリとする。
「あ、足立さん、うち来客用の布団とかなくて。どうしましょうか」
「ん? ソファでいいけど」
「よ、よくありません。足立さん俺の部屋使ってください」
「悠くんがソファで寝るって? やだよ、なんか虐めてるみたいで安眠できなーい」
ソファにだらりと沈む足立さんが、やだやだと手を振った。
「で、でも」
「いーよいーよまだ眠くないし、こっちおいで。くつろごう、それとも君もお風呂入ってくる?」
「…………」
まだ風呂に入る気分ではなかったので、言われた通りにソファに座る。すると彼はこちらに身を乗り出して、俺の足の上に手を置いて、耳元でささやいた。
「今日の優しい僕はどうだったの。ねえ、共犯者さん」
ゾクゾクと、頭のてっぺんから足先までが震えた。彼は俺と足立さんが『共犯』になったあの日と、同じ声をしている。悪くて、楽しげで、俺が好きな、声。
「僕のかわいい共犯者さんに聞こう。霧が晴れないのは誰のせい? 連続殺人犯が未だに捕まっていないのは、誰が悪いからかな?」
誰が悪いか。あの日、足立さんが犯人だと言えなかった俺だ。あの日脅迫状に火をつけた俺だ。焦げた匂いを、少しでも心地良いと感じてしまった俺だ。仲間と過ごした一年を、裏切った、俺が。
「俺が……悪いです……」
「大正解! いいこだね」
いいこいいこと頭を撫でられれば、言い知れぬ心地よさに包まれる。足立さんの口元がにやりと弧をえがいて、頭を撫でながらその口で責め立てる。
「そうだよ。君が全部悪いんだ。君が僕なんか庇っちゃったからこんな事になってるんだよ?」
「あ、足立さん……」
「でもね、僕は君を許してあげる。どう? この世で君を許してくれる人なんて、僕くらいしかいないだろ」
「あ……」
足立さんの方を見る。顔があまりにも近くにあって、目を合わせるので精一杯だった。柔らかく微笑む彼は天使のようだ。その唇が俺に救いの言葉を紡ぐ。
「僕は、君を、許すよ」
「あ、ありがとうございます……ありがとうございます、足立さん……っ」
足立さんの手をきつく握って、気付けば頬に涙が流れ落ちていた。それから年甲斐もなくわんわんと声を上げて泣いて、その間、足立さんはずっとやさしく俺の手を擦っていてくれていた。
「他にもなにかある? 僕に許してほしいことは」
温かい声が耳をくすぐる。吹きかけられる吐息にドキドキした。口をついて出た言葉は馬鹿なお願い。
「あ……あの、下の名前で呼んでもいいですか」
「それが君の望みなら、僕が全部許してあげる」
「と、透さん……好きです……」
「僕も君が好きだよ」
「ほんとうですか」
「僕がきみにうそをつくわけないじゃない」
微笑む彼を疑う脳を、俺はもう持っていなかった。
「だって君、僕の味方なんでしょ」
「……っはい!」
霧は晴れない。いずれきっと、都会にだって侵食していく。いつ世界が終わるのかもわからない。仲間たちはもう居ない。叔父さんも、菜々子も、ぜんぶ、俺が裏切ってしまった。それでも、俺はもう鍋を焦がさないでいられそうだった。何を間違えていても、何を裏切っていても、今はこの幸せを離したくない。馬鹿で、子供で、何もかもを間違えた俺を許してくれる、彼の手を強く強く握り返した。
「ばかな子だね」
足立さんが呟く。俺にはそれさえも褒め言葉に聞こえた。